コンビニ人間を読んだ感想。
以前、いつだったか忘れたが、コンビニ人間は結構面白いと勧められてから数年たった。
私は日本人の描いた小説が読めないという認知のゆがみがあるので(いやな内容の小説をたてつづけに読んだ後、読めなくなった。)まあ、この本も読めないだろうと思っていたのだが、昨日、買い物に行くのが嫌でうだうたしている時に、突然ふと手に取って読み始めた。
本自体は短いので30分ほどで読めた。
感想は、すごい共感してしまった……。 これ、まんま発達障害の人のストーリーではないの。
そして、どーんという気分になった。
(私は、この日本人著者小説を読んで感じる、いやな読後感を味わうのがとても嫌いなので、数年前のある日、日本人の小説を読むのをきっぱりと辞めたのだが、ーー (認知のゆがみか、それ以来日本人の小説のコーナーを見るだけでも苦痛になってしまい、本当に読めなくなったのだが) (日本人が書くちゃんとした小説で、愉快痛快、さわやかに終わってるものってあるの??あったら知りたい))
まず、何に共感したのかを書く。
あてはまるところとあてはまらないところがあって、
主人公の、あてはまらないところは
・「誰かとめてー!」と言われて同級生をシャベルで殴って止めた、
・小鳥が死んだ時に、「良かったねお母さん、今日の夕飯にしよう!」とうきうき言って、母や周りの人にドン引きされた、
……などというエピソードは、私にはあてはまらなかった。
あてはまるところは、
・主人公が、適応するために、周りの人が誰かのことで怒っているのを見ると、その場の空気を読んで、別になんとも思っていないのに「えーひどいですね」といったように、同調して怒って見せたりしているところ。
・それが成功して一部になっていると感じて喜んでいるところや、他の人が怒られて辞めさせられたところを見て、「私も使えなくなったらああなるんだろうな」と、感じているところ。
・自分のしゃべり方のくせやファッションが、誰かのしゃべり方のくせのまねであることを自覚しており、分析できているところ。服装についても、誰かのまねであることを自覚しているところ、そしてそれが移り変わるところ。
・普通な妹さんとの一連のやりとり。(これは長くなるので、この記事では扱わない。気が向いたら別の記事で書く。)
私も学生時代ずっと周りから浮かないように、自分では思ってもないことを嘘をついて話を合わせていたので、非常に共感してしまった。周りに適応するということは本当に難しくて、この作者は非常にうまく描写しているのではないだろうか……。
(私は雑談に加わるというのは今でも苦手で、もう今は無理に会話に入らないでずっとにこにこして聞いている(ふりをする)というのが、私の主なやり方になっている。顔は疲れるが、トラブルにはならない。)
さて、ここからが、私が本当に衝撃を受けたところだ。
二つめの、誰かのしゃべり方のくせや、ファッションがうつってしまうというのは、私も若いころ結構あって、自覚していたが、どうにもならなかった、そうなってしまうのだ。
自分でもまねっこ(この言葉を使うのは抵抗があって今日まで使ってこなかったが……わかりやすいのであえて使うことにする)していることは自覚していて、しゃべり方を直そうとしたのだが、直せなかった。
私の場合、ある友人のしゃべり方におちついた後は、もう固定してしまっていて、そこから別の人には移っていない。これから移るかもしれないが、わからない。
実は、主人公がこのようなまねっこしている描写の書籍を読んだのは、人生で二度目で、一度目は、
「自閉症だった私へ」(ドナ・ウィリアムズ) で、二度目が、この「コンビニ人間」だったのである。
そして、これが私的どーんの 主な正体でもある。
主人公がまねっこしている描写で、非常に私は驚き、「あれっ!? やっぱりみんなこうなんだ!!私だけじゃないんだ! 」といったようにある種の興奮を味わった。
さっきも書いたが、今までこのまねっこのシーンが書かれている書籍に一冊以外、出会ったことがなかったからだった。(私が本を避けているせいもあると思うが)
「自閉症だった私へ」で、ドナがキャロルに出会って「その日から私はキャロルになった」というシーンがあるのはご存知だろうか?
私は非常にこの描写に興味があって、時折ぼんやりとその光景を夢想する。。作中では多重人格のように書かれているのがだが、私はこの「キャロルになった」というのは、非常に強力なまねっこ、なりきりかもと思っている。
ドナがきれいなものや、好きなものしか食べなくて、ウサギが好きで、ウサギがキャベツを食べるから自分もキャベツを食べた、という描写がある、私はここも大好きだ。
私も(可愛いなあ)と思っていた友人が、「好き」、といっていた食べ物がその日から好きになってしまう現象があったので、ああ、なんかそういうのあるなあと思っていたのだった。
私の場合は身近な友人から移ってしまう。たとえば、私が(かわいいな)とか(いいなあ)という友人女性のしゃべり方が私にうつってしまうのだ。
低めのセクシーな声でしゃべっている友人だったら、私も同調して低くてセクシーっぽいしゃべり方になってしまう、可愛く少しばかっぽいしゃべり方だったら、私も可愛く少しばかっぽいしゃべり方がうつってしまう。
服装も同様で、年代ごとにガラッと変わっていることもある。
実は私は、食べ物の好みまで、友人のひとことで変わってしまったりするのだ……。
どうしてなんだろう?? これが、ふつうのことなのか、いいことなのか、良くないことなのかわからなくて、誰かにいったことはなかった。
みんなもそうなのだろうか?
誰かから一部をもらって、自分にしているのだろうか?
もしかしたら、みんなもそうなのかもしれないのだが、私にはわからない。
第一、そんなことを誰かから聞いたことがないし、誰からも聞かれたことがない。
自分が一瞬で変わってしまうのが、なんだか怖い。
この「コンビニ人間」という作品は、私がこれまで隠していたことを言い当てられてしまったようで、すごく衝撃的だった。
そして、そのことが非常に重く今、私にのしかかっている。
これは当たり前のことなのだろうか?
それとも、発達障害などの特有の感覚なのだろうか?
これからも私は誰かがうつってしまうのだろうか?
わからない。
以前、いつだったか忘れたが、コンビニ人間は結構面白いと勧められてから数年たった。
私は日本人の描いた小説が読めないという認知のゆがみがあるので(いやな内容の小説をたてつづけに読んだ後、読めなくなった。)まあ、この本も読めないだろうと思っていたのだが、昨日、買い物に行くのが嫌でうだうたしている時に、突然ふと手に取って読み始めた。
本自体は短いので30分ほどで読めた。
感想は、すごい共感してしまった……。 これ、まんま発達障害の人のストーリーではないの。
そして、どーんという気分になった。
(私は、この日本人著者小説を読んで感じる、いやな読後感を味わうのがとても嫌いなので、数年前のある日、日本人の小説を読むのをきっぱりと辞めたのだが、ーー (認知のゆがみか、それ以来日本人の小説のコーナーを見るだけでも苦痛になってしまい、本当に読めなくなったのだが) (日本人が書くちゃんとした小説で、愉快痛快、さわやかに終わってるものってあるの??あったら知りたい))
まず、何に共感したのかを書く。
あてはまるところとあてはまらないところがあって、
主人公の、あてはまらないところは
・「誰かとめてー!」と言われて同級生をシャベルで殴って止めた、
・小鳥が死んだ時に、「良かったねお母さん、今日の夕飯にしよう!」とうきうき言って、母や周りの人にドン引きされた、
……などというエピソードは、私にはあてはまらなかった。
あてはまるところは、
・主人公が、適応するために、周りの人が誰かのことで怒っているのを見ると、その場の空気を読んで、別になんとも思っていないのに「えーひどいですね」といったように、同調して怒って見せたりしているところ。
・それが成功して一部になっていると感じて喜んでいるところや、他の人が怒られて辞めさせられたところを見て、「私も使えなくなったらああなるんだろうな」と、感じているところ。
・自分のしゃべり方のくせやファッションが、誰かのしゃべり方のくせのまねであることを自覚しており、分析できているところ。服装についても、誰かのまねであることを自覚しているところ、そしてそれが移り変わるところ。
・普通な妹さんとの一連のやりとり。(これは長くなるので、この記事では扱わない。気が向いたら別の記事で書く。)
私も学生時代ずっと周りから浮かないように、自分では思ってもないことを嘘をついて話を合わせていたので、非常に共感してしまった。周りに適応するということは本当に難しくて、この作者は非常にうまく描写しているのではないだろうか……。
(私は雑談に加わるというのは今でも苦手で、もう今は無理に会話に入らないでずっとにこにこして聞いている(ふりをする)というのが、私の主なやり方になっている。顔は疲れるが、トラブルにはならない。)
さて、ここからが、私が本当に衝撃を受けたところだ。
二つめの、誰かのしゃべり方のくせや、ファッションがうつってしまうというのは、私も若いころ結構あって、自覚していたが、どうにもならなかった、そうなってしまうのだ。
自分でもまねっこ(この言葉を使うのは抵抗があって今日まで使ってこなかったが……わかりやすいのであえて使うことにする)していることは自覚していて、しゃべり方を直そうとしたのだが、直せなかった。
私の場合、ある友人のしゃべり方におちついた後は、もう固定してしまっていて、そこから別の人には移っていない。これから移るかもしれないが、わからない。
実は、主人公がこのようなまねっこしている描写の書籍を読んだのは、人生で二度目で、一度目は、
「自閉症だった私へ」(ドナ・ウィリアムズ) で、二度目が、この「コンビニ人間」だったのである。
そして、これが私的どーんの 主な正体でもある。
主人公がまねっこしている描写で、非常に私は驚き、「あれっ!? やっぱりみんなこうなんだ!!私だけじゃないんだ! 」といったようにある種の興奮を味わった。
さっきも書いたが、今までこのまねっこのシーンが書かれている書籍に一冊以外、出会ったことがなかったからだった。(私が本を避けているせいもあると思うが)
「自閉症だった私へ」で、ドナがキャロルに出会って「その日から私はキャロルになった」というシーンがあるのはご存知だろうか?
私は非常にこの描写に興味があって、時折ぼんやりとその光景を夢想する。。作中では多重人格のように書かれているのがだが、私はこの「キャロルになった」というのは、非常に強力なまねっこ、なりきりかもと思っている。
ドナがきれいなものや、好きなものしか食べなくて、ウサギが好きで、ウサギがキャベツを食べるから自分もキャベツを食べた、という描写がある、私はここも大好きだ。
私も(可愛いなあ)と思っていた友人が、「好き」、といっていた食べ物がその日から好きになってしまう現象があったので、ああ、なんかそういうのあるなあと思っていたのだった。
私の場合は身近な友人から移ってしまう。たとえば、私が(かわいいな)とか(いいなあ)という友人女性のしゃべり方が私にうつってしまうのだ。
低めのセクシーな声でしゃべっている友人だったら、私も同調して低くてセクシーっぽいしゃべり方になってしまう、可愛く少しばかっぽいしゃべり方だったら、私も可愛く少しばかっぽいしゃべり方がうつってしまう。
服装も同様で、年代ごとにガラッと変わっていることもある。
実は私は、食べ物の好みまで、友人のひとことで変わってしまったりするのだ……。
どうしてなんだろう?? これが、ふつうのことなのか、いいことなのか、良くないことなのかわからなくて、誰かにいったことはなかった。
みんなもそうなのだろうか?
誰かから一部をもらって、自分にしているのだろうか?
もしかしたら、みんなもそうなのかもしれないのだが、私にはわからない。
第一、そんなことを誰かから聞いたことがないし、誰からも聞かれたことがない。
自分が一瞬で変わってしまうのが、なんだか怖い。
この「コンビニ人間」という作品は、私がこれまで隠していたことを言い当てられてしまったようで、すごく衝撃的だった。
そして、そのことが非常に重く今、私にのしかかっている。
これは当たり前のことなのだろうか?
それとも、発達障害などの特有の感覚なのだろうか?
これからも私は誰かがうつってしまうのだろうか?
わからない。

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