"長文(発達障害関連)"カテゴリーの記事一覧
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すいません、いつにもまして文章ぐちゃぐちゃで。
私は 現在作業所で働く障害者でありますが、全障害者の中からみたら「軽度」と思います。
もっと「重度」の障害を持つ子供さんに、現在も大変苦労している親御さんや、ご家族を間近に見ています。
ニュースでは、高齢の親御さんが、障害を持つ息子さんを檻にとじこめたということで、逮捕されたということです。
今回の親御さんは、息子さんを殺したりしてはおりません。
しかし、たとえ息子さんをころしてしまっていても、 世間のみなさんの反応は「仕方がなかっただろう」「親御さんがかわいそう」などに尽きると感じます。
「立派な親だ」という人もたくさんいるでしょう。
それが普通の反応なんだと思います。
私も、自分が障害者だと判明するまでは、そう思っていました。
でも、障害者や、作業所、福祉のことにふれるようになって、だいぶ今は違う考えです。
昔はともかく、今の日本は、障害者だからってしばったり虐待してはいけないのです。
お金がないからって、万引きしてはいけないのです。
エッチなことがしたいからって、痴漢してはいけないのです。
たとえ意思疎通ができなかったとしても息子さんや娘さんや、配偶者や高齢の親をしばったり殺したりしたら犯罪になるのです。
じゃあどうしろっていうのでしょう? 回答を書きます。
(これは大真面目にかいています。)
福祉の力を借りるのです。徹底的にかりるのです。
わからない人はまず、市役所の窓口にいくんです。
ケアマネ的な存在がいるならケアマネに今すぐ電話するんです。
障害者を地域で育てるとか、 子供を地域で育てるとか、 いってますでしょう。
大いに利用するんです。
おとなしくしていたってしょうがありませんよ。
電話をじゃんじゃんかけても、大声を出してでも、なんでもいいですから、注目させてください。
あなたの訴えが通るまで暴れまくるんです。
おとなしく行列のラーメン屋みたいに順番待ちをしていてはいけないのです。
じっと家族で我慢して、かかえこんではいけないのです。美徳じゃないですよ、そんなの。
全然美しくないですよ。
かかえてかかえて、家族を殺したりしてはいけないんです。
みなさん、障害者のことをいやな目で見ます。 当然でしょう、こわいですもんね。見た目だってよくないし、仕方がありません。ふつうのことだと思います。
でも知ってますか? 障害者って生まれたときから障害者じゃなくて、 ある日突然、障害者になってしまった人だってたくさんいるんですよ。
人間、いつ何があって、重度障害者になるのかわからないのです。
「もし重度の障害者になったらいっそ殺してっていうよ」
「そうなったら私なら死ぬわ」
そうコメントしている方がなんと多いことか。
実際は、誰も殺してくれないし、簡単には死ねないのです。
今はちがっても、自分や自分の親、自分の子供がある日、障害者になって、福祉の制度の利用することになるかもしれません。
その時に、ああ、こうなんだなってわかってくだされば、いいんです。
そうでなくとも高齢になれば誰しも皆さん障害者になりますから、
その時に、ああ、そうだったんだ、ってわかってくだされば、それでいいんです。
誰もが、なりたくて障害者になるわけじゃないってことを……。
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以前にも同じような記事をかいていたようだが
発達障害が 個性だとか
発達障害は 性格のはんちゅうだとか そういう言葉が 大嫌いだ。
もしも 性格のはんちゅうに含まれる人がいるならば、その人は 障害度が低く、社会適応ができており、二次障害を起こしていない人に限った話だと思う。
(本当にそういう人がいるのかどうかは私は知らない)
わたくしは、発達障害者について、実際には今通っているB型事業所にいるたった数名しか知らないのだが、
性格はばらばらで、社会適応度も個々様々である。
みな、事業所の中ではとても落ち着いているように見える。
しかしみな 二次障害で何らかの病気を持っている。
彼らとは、事業所の仲間として、表面的な話しかしたことはない。
障害について、語り合ったことはない。
しかし、彼らも社会の中でズタズタにされてきたのだろう。
性格のはんちゅう、そう言っている人は、ほんとうに心からそう思っているのだろうか?
これは確実に言えるが、まさか当事者がいっているわけはないだろう。
いうのは、親とか、 そのへんの連中にきまっている。
当事者だったらわかるっての。
個性だからなんだ?性格のはんちゅうだからなんだ?
それで 何か問題が片付くのだろうか。
勉強ができないことが、正当化されるのか。
空気が読めないことが、正当化してもらえるのか。
すぐに疲れ切ってしまうことを、誰もが受け入れてくれるのか。
すぐに忘れたり とっちらかっちらした仕事しかできなくても許してもらえるのか。
おかしな行動をとることを、正当化してくれるのか。
すぐに怒り出したり、すぐに泣き出したり、大人っぽい行動がとれないことを、許してもらえるのか。
人にだまされても、無条件で助けてくれるのか。
法は味方についてくれるのか。
だれか、私の見方になってくれるのか?
だれか 私を守ってくれるのか?
どこにも就職できなくても
お金をぜんぜんかせげなくても
汚い部屋で 暴れまくったり、 自傷行為にあけくれたりしていても
性格のはんちゅうだよねって クズあつかいされないでもらえるのか?
そんなわけない。
苦労するのは当事者本人であり、 苦労して死ぬほど追いつめられるのも当事者本人だ。
わたしは現に、30代で発達障害と診断されるまでは、健常者だった。
「どこにでもよくいるダメ人間のメンヘラ女」なだけだった
くるしんで くるしんで くるしみぬいて
なんとか普通になりたいと願って試行錯誤しつづけて、でも全然普通には程遠い。
つらくてつらくて、いくつ病院にいったか。
どこにいっても 状況は変わらなくて、 くるしくてくるしくて
ダメ人間のまま生き続けた。
ようやく発達障害だってわかって、今はただたた、本当にほっとしている。
もう障害者でいいんで ほっとしといてください。
私、人と同じ舞台で 戦えないんです。
もう ひっそり くらしますんで、 ほっといてください。
ただ、ほっといてください……
個性だよ、とかいわれても、
ぜんぜん同意できない。
私は 私のまま生きてよかったということで、
私は 私のまま 生きてこれなかったのは、 理解のない社会や環境が悪いということで、本人には何の落ち度もないということ?
そんなわけあるか。
いきるっていうことは苦しい。
健常者だって 障害者だって 生きるってことは苦しい。
生きていくことは くるしみなのだ。
苦しんで 苦しんで、 それでも いきてかなければならないのだ。
死ぬほど苦しんで 何度も何度も 死のうと苦労しても、成功しない。
死ぬのって本当に 大変。 死んだ人は、 ほんとうにすごい、 勇者だよ。
ダメ人間な私には、どうやったってできなかった。
無理だって悟ってからもやっぱり何度も試みたけど どうしても成功しなかった。
20歳で死にたかった。
でも こんなに死ねないってことは、 私 は おそらく90歳すぎても 死ねないだろう。
恐ろしいことだが、 今も そう思っている。 90すぎても くるしみつづけなければならないのかもしれない。
願わくば、 そんなことにならないように、 強く強く願っている。
私は一人で生活していけない。
苦しみぬいて 出た結論である。
死ねないのだから、 死ぬまでは 福祉にしがみついて 生きてやる。
今はそう思っている。
発達障害が
本当に 個性だとか、性格のはんちゅうだとかとして のびのびと生きていける世の中だったら、 私は 今どういう人生を送っていたのだろうか。
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周りに合わせること
無理に周りに合わせる、というのは、たとえば
「昼食をみんなと一緒にワイワイ食べる」
「興味がない話題に無理やり参加する」
「意地悪な人ともニコニコ話す」
「きらわれものとは話してはいけない」
などである
ずいぶん以前の友人と自分との会話をふと思い出した。
友人女性「ラクだから夏は家でブラトップ(ユニクロの女性向け商品でバストカップ付きキャミソール)を着ているよー」
私「私も着てるよ~!楽だよね!」
もちろん嘘である。
ブラトップ(ユニクロの女性向け商品でバストカップ付きのキャミソール)の存在は知っていたのだが、自分では一枚も持っていない。
そもそも、私は胸が大きいので、カップ付きのキャミソールなどでは胸が支えられず、たれるのでブラトップを着るのは無理なのだ。
でも、友人に「あなたも着てる?」と聞かれると、「着たことがない」と言えないのだ……。
ささいなことで「また周りとずれてしまう!」「何も知らないと思われてしまう!」「 変に思われてしまう!」「ださいやつと思われてしまう!」
と色々な思いで こんなつまらないことで瞬時にパニクってしまって、とっさにヘタなウソをついてしまう。
「私も着てるよ~!」と。
そして、嫌われていく……。
当時はささいなことですら、自分の好みや考えを言うことが恐怖で、ひたすら周りに合わせていた。
ずっとずっと、周りとの不適合に悩んでいた。
こんなに努力して周りに合わせているのに、どうしてこうなってしまうんだろう?
全然わからなかった。
友人関係が特にもうダメだった。 壊滅的にだめだった。
友人に突然そっぽを向かれる恐怖。
理由がわからずに、突然クラスでひとりぼっちになってしまう恐怖。
自分一人が歯車からはずれている、あの絶望感。 終わらない孤独。
人と違うということは、恐怖だ。
みんなと同じにしなければならないのである。
ようやく、今ではそう思わなくなった。
就労支援B型事業所で働き始め、「普通の人」からずいぶん遠い世界にきて、ようやく最近そう思えるようになった。
人と同じであることとは、いったい何なんだろう。
人に合わせるというのは、いったい何の意味があるのだろう。
同じ人なんて一人だっているわけないのに。
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私はある趣味のサークルに入っており、人数も多くないので迷惑をかけないように、自分の障害のことをサークルのみなさんに話してある。
自分がどう思われてもかまわないのが、今後活動する上でお金の管理を任されたり、重要な事務仕事を任されたりすることがないようにである。
万が一重要なポストについてしまったら、サークル活動が、そして私のメンタルがとんでもないことになってしまうだろう。
「自分の身内にも病気の者がいる」「就労支援事業所で働いている身内がいる」といったことを話してくれる方がちょろちょろと出てくるようになった。
世界の広がりを実感する瞬間である。
案外近くに患者さんはいるものなのだな。
先日は、身内が就労支援事業所で働いているという方と お話する機会があった。
勤務先の話や、情報の交換、障害をもっている方のお話なんかもできて、非常に有意義な話だった。
また別の方、現在精神疾患のお子さんをもつ・悩めるおやごさんとお話する機会があった。
お子さんの病状がかなり重く、話を伺うだけでも、おやごさんの心労はとんでもなくきついことがありありと見えた。
普通は一般の方と こういった話はできない。
一般的な人は、発達障害や、精神疾患についての知識は無に近い。
ちょっと話すだけでも全然しらないなとわかる。
まったく悪いことではなくて、これは とても自然で普通のことだ。そして幸せなことだ。
精神疾患や発達障害でなくても、脳腫瘍とか、心筋梗塞とかなんでもだが、自分や家族が心筋梗塞になったりしなければ、わざわざ心筋梗塞の本を買って詳しく学びたいと思わないだろう。
自分の子供や家族に当事者がいるとかそういうレベルでないと、それらを知る必要は無いのだから。
これまでその病気について頭をなやます必要がなかったということ。
これは、普通でありながら、実はすごく、すごく
ものすごーく恵まれていることなのだと、非常に強く感じた。
誰も彼もがみんな平穏に暮らしているわけではない。
貧乏に苦しむ人、 病気に苦しむ人、 子供のことで苦しむ人、 親の介護でくるしむ人、世の中にはいろんな人がいる。
しかしみんなどうにかそれをかくして、 普通に見せて、何もないように、幸せないように、毎日を 生きているだろうか。
なぜ、人に苦しみを見せてはいけないのだろうか。
どうして何も悩みがないようにみせないとならないのだろうか?
生きていくと言うことは とても大変だ。
もっと、人に苦しみをみせられるような 世の中になればいいのに。
もっとうまく文章をまとめられればいいのにな。
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冷や奴がおいしい季節だなあー。
つい食べすぎるADHD妻ですが豆腐で腹がふくれるので、健康にはよい気がします。
最近リストカットについて考える機会があったので、書こうかな。
メンヘラという言葉が定着してずいぶん経つのと同様に、リストカットも今や珍しいものではないと思っている。
私も御多分に漏れず十代後半の頃からほとんど毎日リストカットしていて、腕はずたぼろの痕だらけである。(今はしていない)
しかし、世の中には、リストカットを知らない人、見たことがない人もまだいるらしい。
リストカットに拒否反応をする人もいるようだ。
私が十代後半、ある病院に行ったとき、医者にリストカットする人はお断りと言われて帰らされたことがある。
作業所にいる女性もそれで病院を変わった経験があるそうだ。
お断りされた当時もショックだったし、今思っても大変腹ただしいが、精神科医の中にもリストカットに対する偏見や、無知な人がたくさん存在するのだろう。
当時は自分が悪いんだとまたそれで自分を責めていたが、あの医者は不勉強で恥ずかしい無知な人だったのだと思う。
今では考えを改めていればよいのだが。
書籍を読んでいて知ったのだが、重度の摂食障害の患者も嫌われる傾向があるようだ。
治すのが難しいだからだろう。
患者(や家族)はもうそれ以外にどうしようも対処がなくなって病院に来ているというのに、 どういうことだ?
非常に無理解で、悔しいと思う。
自分はリストカットしてた時は、なぜリストカットしているのかよくわからなかった。
今思い起こすと、理由はこんな感じだったと思う
1.死にたい
2.限界まで高ぶったやり場のない怒りや苦しみの衝動をぶつけるため
3. 切ることによって苦しみに直面していた意識をすっとそらせる
プラスけっこう無意識で
4.誰かに助けてほしい、誰かにわかってほしい
と思っているということ。
親にも先生にも病院でもわかってもらえない。
「なにがつらいの?」
といわれても、 子供の頃からずーっとつらくて、もうなにもかもつらい中で、それが当たり前みたいになっているのに、「何が?」と言われてもなんといえばいいのかわからない。
そこで、とりあえず一番目先のつらいこと「仕事がつらい」とか「過食がおさまらない」言ってしまう。
自分もわかっていないから、さらにうまく伝わらない。
わからない苦しみがずーっと続いていく。
人間、つらいのが当たり前になったからといって、いつまでもそれに耐えられるわけではないのだ。
我慢に我慢を重ねて限界が来てしまって自傷に発展するのは、そう考えるとごく普通のことなんじゃないかと思う。
その自傷行為の根っこには何があるのかを
探ろうと、わかろうとしてくれる医者が、人が、増えたらいいのに。
そう思う。
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